合唱曲目

愛唱歌

城ヶ島の雨
作詞 北原白秋 作曲 梁田貞 編曲 早瀬敏弘
人気詩人であった北原白秋は、隣に住む別居中の人妻と恋に落ち、裁判沙汰になり、人気は失墜。やがてその女性と結婚し、三浦市三崎に居を構えた。その時に詠われたのが「城ヶ島の雨」である。複雑な事情の中で、未来を見つめよう心意気を覗かせている。先日、「しぐれ」に濡れながら口ずさんだ「城ヶ島の雨」は、それでも重く感じられた。
赤とんぼ
作詞 三木露風 作曲 山田耕筰 編曲 早瀬敏弘
作詞者の心には、赤とんぼの思い出と姉やの想い出が切り離せなかったようだ。「負われて見たのはいつの日か」は、姉やに負われて見たのだろう。不自然のように思える「十五で姉やは嫁に行き…」は、突然慕っていた姉やが剥ぎ取られるように去っていったショックが、ふと蘇ったのに違いないと思う。童謡として歌い継がれてきた一曲は、老いを知った私に、あの時あの場所あの人を、ほうふつと蘇らせてくれる。今回はソプラノソロと合唱で演奏する。
紅葉
作詞 高野辰之 作曲 岡野貞一 編曲 早瀬敏弘
この曲は、1911年(明治44年)の「尋常小学唱歌」第二学年用に掲載された。素直に、ただ素直に、山と川が見える場所で、紅葉を眺めて歌った詩に、これもまた、素直に曲がつけられてある。音楽が商品でない時代の、心の息吹を感じさせる名曲と思う。
秋の月
作詞/作曲 滝廉太郎 編曲 早瀬敏弘
『秋の月』は、1900年(明治33年)に発表ざれた組歌「四季」における第3曲。タイトルのとおり、春夏秋冬の情景をそれぞれ1曲ずつ詠んだ4曲からなる組曲。第1曲目の『花』は有名な「春のうららの隅田川…」で、抜きんでて歌われている。「秋の月」は、詩も曲も、あまりにも物悲しすぎると、あまり歌われてこなかったようだ。今回も団員からクレーム?の声が出たくらいだ。しかし、西洋音楽の草分けとして、孤独感を味わいながら、名曲を生み出し、また、本人も胸を患いながら、自分の生命が消えてゆく予感を、秋の月と鳴く虫に語らせたように思える。今回はバリトンソロと合唱で演奏する。
秋の女よ
作詞 佐藤春夫 作曲 大中恩
佐藤春夫は、1892年生まれの近代日本の詩人・作家で、文壇の巨匠のひとりと言える。詩歌と小説を軸に、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和まで旺盛に活動した。佐藤春夫は、谷崎潤一郎の妻が、潤一郎から冷たい仕打ちをされていたことから、同情し、恋愛に至る。谷崎は条件付きで春夫に妻を譲ることに同意するが、のちに拒否する。そのことで、苦悩する春夫が.、持ち続けた恋心を歌ったのが、「秋の女よ」と思われる。大中恩は、もつれた心に巻き込まれることなく、和音をなぞりながら甘く流していく。最後の「凄まじく枯れた古城の道」だけが、心のうめきを思わせる。
落葉松
作詞 野上彰 作曲 小林秀雄
軽井沢の自然を愛した野上彰の詩「落葉松」が、ラジオから流れていた。感銘を受けた小林秀雄は、歌曲にしようと野上に連絡を取った。が、一週間前に野上は他界していたと言う。『落葉松の秋の雨にわたしの手が濡れる落葉松の夜の雨にわたしの心が濡れる…」秋雨は、降ったりやんだりしながら、秋の深まりを促してゆく。繰り返される同じモチーフにのって、人の心も深まってくる。雨に濡れた落葉松の香りの中に溶け込むかのような静かなエンディングが美しい…。
ふるさと
作詞 高野辰之 作曲 岡野貞一
小学校唱歌として誰もが知っている名曲。考えてみれば、ふるさとを思う歌は、どの時代にも世界のどこの国にもあるに違いない。
小生の故郷はふくしま。戦争の最中に7人兄弟の末っ子として生まれた。しかも最初の男児。両親の喜びはひとしおだったに違いない。地元の大学を出て音楽教師になる夢を、親も周囲も私も持っていた。が、結果として故郷を捨てた。
それから7年が過ぎ、私のもとに「父危篤」の知らせが届いた。駆け付けた私に、姉たちは親不孝者となじった。私は、心の中で詫びつつも、大きな理想と使命を果たすために、父母を置いてふるさとを捨てたことに悔いはなく、毅然としていた。すると、母が父のために歌を歌えと言った。私は、迷うことなく「ふるさと」を歌った。「志を果たして、いつの日にか帰らん」この三節を3回繰り返して歌った。
すると、眠っていたと思われた父の目から涙がひとすじ流れ、父が口を開いた。「わがった。わがった。(解った)もう何も言うな。もう誰も敏弘をいじめんなよ。」姉たちへの忠告だった。私は愕然とした。父の期待を裏切り、故郷を捨てた私に、恨み言も言わず叱りもせず、歌を聴いて全てを許す人が目の前にいた。
私が探していた人間の最も尊い慈愛との出会いだった。私は泣きじゃくるしかなかった「これが親だ。これが父だ。」これがそれからの人生の原点となった。親と子という絶対的な存在関係を実感した瞬間だった。そのきっかけとなった私の忘れがたき「ふるさと」である。
この道
作詞 北原白秋 作曲 山田耕筰 編曲 早瀬敏弘
この道とは、どこの道なのだろうか?「アカシアの花」や「時計台」から、札幌市の北一条通りが定説になっているが、白秋の母の実家にある熊本県南関町から柳川までの道の情景ともいわれている。この歌は、童話のジャンルにあるがわらべ歌とは異なり、大人に依存する郷愁を謳っている。山田耕筰のメロディは、日本語のアクセントに基づいて描かれており、違和感なく心に届く。日本歌曲の原点ともいえる。
「この道はいつか来たことが…」胸に刻まれた情景が次々と蘇える。そのたびに、懐かしさとともに様々な思い出がよぎる。もっと長く続いたであろう白秋の思い出は、ここにはない。自分で消し去ったかも知れない。
花は咲く
作詞 岩井俊二 作曲 菅野よう子 編曲 朝田朋之
慰めも励ましもむなしく感じる現実が突然人々を襲った。未来を失い唖然とする人々の姿に、自分の無力を痛いほど感じた。それでも、声がかれるほど励まし、目を皿のようにして探し続け、現実を受け入れ、新しい希望を見つめる。この力はどこから来るのだろう?
この歌は、歯を食いしばって生きる人々を、天から舞い降り 抱きしめながら慰め励ましている天使の姿をほうふつとさせる。
作詞:作曲 中島みゆき 編曲 山室紘一
 「愛し合う二人は、運命の赤い糸で結ばれている」と言われ、その二人が一緒に人生を紡いでいくと、それは一枚の布になる。人生の出会いや別れ、自分とのつながりが、喜びや悲しみを生み出すことを、中島みゆきは深く思いめぐらしたに違いない。「縦の糸はあなた、横の糸はわたし」このメロディには、様々な思いがほうふつと浮かんでくる。やはり、いい歌だなとしみじみ思う。
だからこそ、細い糸から始まるドラマを、たぐり寄せるように歌ってみたい。合唱という糸は、どんな布を織りあげるのだろう?
未来はひとつ
作詞:作曲 青島美幸 編曲 早瀬敏弘
この歌の作者は青島美幸。作家でタレント、のちに東京都知事を務めた青島幸雄を父に持つ。出版活動はもちろん、タレントとしてラジオテレビで活躍している。さらに作詞作曲にもユニークで素敵な作品を持っている。「誰もが、あなたをわたしと思いながら生きていけたら、私たちは争いのない星に住めるよ」彼女のメッセージはストレートである。この歌が、早く世界に拡散するように、心を込めて歌いたい。
いい日旅立ち
作詞:作曲 谷村新司 編曲 山室紘一
誰もが別れの時を迎える。事情はどうあれ、別れを迎える。それを「いい日旅立ち」とできる人は、恵まれた人かもしれない。子供のころ幸せを感じていたからこそ、そのころの歌や思い出を糧とできるのだと思う。その最も大きいものは、父と母の存在だろう。
胸を引き裂かれる思いで故郷を離れたとしても、それでもこの歌は「いい日旅立ち」と思わせてくれる。
私も振り返ってみれば、確かに「いい日旅立ち」であった。
大地讃頌
作詞 大木惇夫 作曲 佐藤眞 文責 早瀬敏弘
「母なる大地のふところに 我ら人の喜びはある 大地を愛せよ・・・」全七章からなる混声合唱組曲『土の歌』の最終章にこの歌がある。
詩人大木惇夫は1895年(明治28年)に広島に生まれた。北原白秋を師とし、詩人としての名声を確立したが、戦時中に発刊した詩集『海原にありて歌へる』の「戦友別杯の歌」が多くの兵士たちに愛唱されたため、終戦後、戦争協力者の烙印を押され、不遇、不運の生涯を終えた。(1997年没)
「大地の歌」は、東京大空襲を避けて福島県浪江町に疎開し、静かに連なる阿武隈の山々を背にし高瀬川の清流の音を聞きながら過ごしていた時に着想されたと言われる。戦争を忘れさせる自然との交流を重ねて、人は土を離れては生きることができないことを実感したのだろう。
また、この地で大木は、自分のふるさと広島に原爆を落とされたことを知った。第三章「死の灰」で原子爆弾への怒りと悲しみを描いた。この「大地讃頌」は、切なる願いと祈りが込められている。ただ歌い上げるのではなく、心からの叫びでありたい。   たたえよ土を
母なる大地を ああ
たたえよ大地を ああ

韓国愛唱歌

アリラン
韓国民謡 編曲 阿部/早瀬敏弘
この歌は、計り知れない奥の深さを持っている。心の中から吐き出すようなアリラン。陽気に踊りながら歌うアリラン。しみじみと自分を振り返らせるアリラン。しみじみと自分を振り返らせるアリラン。口伝えに広がる中で、多様な変化を取り入れ、各地独特のアリランが残っている。
先日、「ほたる」という映画を見た。終戦近い頃の鹿児島県知覧。そこには特攻基地があった。出撃の日が決まると、隊員が必ず挨拶に行く食堂があった。知覧の母と言われていた食堂のおばさんに別れを告げるためである。ある日夜遅く、一人の隊員が別れに来た。そして、故郷の歌を歌うといって歌った歌が「アリラン」であった。
サランへ
作詞 呉慶雲 作曲 辺赫発 編曲 早瀬敏弘
良くも悪くても感情を正直に表す韓国の友人たち。私は大好きだ。何事にも遠慮深くつつましやかで耐える姿は美徳とする日本では、含みある言葉が生まれ、表現も遠回しのものが多いように思える。
この歌は正直そのもの。すでに自分から去った人になのに、ひたむきに慕い続ける情を歌いあげている。消えることのない想いが募り、胸いっぱいに広がっていく忘れられない高まりを、「イェ イェ イェ・・・」と歌い上げているが、私は、心の中に燃え上がるマグマを観るように感じる。
イムジン江
作詞 朴世永 作曲 高宗漢 編曲 早瀬敏弘
分断された国と民族。今も続いている悲劇は、いつ終わるのだろうか?何がそうさせているのだろうか?世界の各地でも、紛争や戦争が絶え間なく起きている。
解決できないはずはないと信じてはいても、確実な道筋が見えない。時の流れは早く、世代も変わる。今私たちが出来ることをしておきたいものだ。歌声よ届け!
カゴパ
作詞 李殷相 作曲 金東振 編曲 早瀬敏弘
李殷相の長編詩の一節を、作曲家 金東振が19歳のときに作曲したデビュー作。韓国歌曲集の最初に載っている名歌である。編者は、ソウル市新聞洞の作曲者の自宅で3時間あまりこの曲のレッスンを受けた。流暢な日本語で丁寧に教えて頂いた。作曲者の伴奏でカゴパを歌ったときにも、民族を超えた感動で胸がいっぱいになった。
オルグル
作詞 沈 奉錫 作曲 申貴福 編曲 早瀬敏弘
この作詞者:沈奉錫と作曲者:申貴福は、ソウル市の同じ中学校の教師だった。職員会議の校長の話が退屈で、ノートに取り留めもなくグルグルと円を描いていると、かつての恋人のことが思い出され、その彼女の顔になっていた。切なくもあり懐かしさもあり、そのノートにしたためたのが、この詩であった。 隣に座っていた音楽教師:申貴福に、すぐ詩を渡した。
まず学生たちの愛唱歌になったが、世に知られたのは1975年ユン・ヨンソンがリリースしてからであった。その後テレビドラマの挿入歌としても歌われ、今も多くの歌手が歌っている。
ペンノレ
作詞 韓国民謡 編曲 伊地知元子
宮城県松島の斎太郎(さいたら)節と同様に、櫂をこぐリズムに乗って楽しく歌い上げる韓国の漁師たちの歌で、元々は慶州道民謡として知られているが、各地に同じような歌があると聞く。掛け声なども色々あり、メロディも少しずつ異なる。この歌を歌うときは、のってくると地声になってしまう。

水のいのち

水のいのち
作詞 高野喜久雄 作曲 高田三郎 編者 早瀬敏弘
存在の状態は変化しても、質量はなくならない。そして状態の変化は、自然現象、生命現象となる。
私たち人間もまた、その中にあるとすれば、消滅はしない。あるのは状態の変化のみとなる。そして、人の体の70%は水分と言う。地球の表面積の70%は、海だと言う。生命は海から誕生したと言う。水を飲まなければ、生きていけない生命体がほとんどである。大切な水は、どこから来たのだろう。自然の営みの不可思議に、畏敬の思いを抱き、また、そこに限りない思いを寄せるひと時を、この組曲は与えてくれる。何度聴いても何度歌っても、である。
水のいのち – 雨 –
作詞 高野喜久雄 作曲 高田三郎 編者 早瀬敏弘
あたかも地面や葉の表を雨が叩くようなピアノ伴奏に乗って、「降りしきれ雨よ」と語りかける何者かが登場する。人も自然も在りしものが在るべくなるために、等しく恵まれるよう心を砕くあなたは誰か?
水のいのち – 水たまり –
作詞 高野喜久雄 作曲 高田三郎 編者 早瀬敏弘
雨があがる。山に降った雨は、木々を潤し、また池中に沁み込み、湧き水となる。しかし、道路の道のわだちに溜まった雨水はどうなる。
水のいのち – 川 –
作詞 高野喜久雄 作曲 高田三郎
たとえ運よく川に到達しても、雨水は川下へ川下へ流されるだけだ。何とかならないものか?人も同じだ。
水のいのち – 海 –
作詞 高野喜久雄 作曲 高田三郎 編者 早瀬敏弘
そうだ。結局海に流れ込むしかない。その海で、次に来るであろう運命を待つが良い。底に沈もうとも、全てを抱擁する海だから。
水のいのち – 海よ –
作詞 高野喜久雄 作曲 高田三郎 編者 早瀬敏弘
その海の中で、億年の昔の生命が生まれた。水もまた、繰り返される自然の営みの中で、やがて時が来て蒸発し空中を旅し、そしてまた雨となる。それこそが「水のいのち」なのだ。

宗教曲

REQUIEM
作曲 Gabriel Faure
レクイエムは、ラテン語で「安息を」という意味の語であり、死後の安息を神に願うミサで歌われる。
フォーレのレクイエムは、モーツアルト、ヴェルディの作品とともに「三大レクイエム」と称されている。フォーレは、1887年の秋にこの作品を手がけている。父親が1885年7月に死去し、身近に「死」を見つめた彼自身の中に、大きなテーマが芽生えたと思われる。不幸なことに、作曲を始めたその年の12月には、母親も死去してしまう。彼のモチーフは、最も身近な現実から生まれたに違いない。
しかし、彼は後に「私のレクイエムは、特定の人物や事柄を意識して書いたものではありません。…あえて言えば、楽しみのためでしょうか」と書いている。
「えっ。楽しみのため…」この言葉をそのまま受け取れないまま、練習を重ねていくと、フォーレのレクイエムは、モーツアルトやヴェルディとは全く違った動機から書かれたということが分かってきた。教会の威厳を表した壮大なミサ曲として書いたのでもなく、自分の作曲技法を詰め込んだ芸術作品でもなく、紛れもなく正面から「死」を捉えていた。確かに「両親の死」ではなく「死」そのものを見据え、その先の「復活」に至るまでの行程について描き上げたとしか思えなくなった。
フォーレは、自分が感じた「人間の死と復活」という、最大のテーマを描き上げたことで、結果として楽しかったのではないかと思うことにした。
このレクイエムの初演はマドレーヌ寺院で行われたが、司祭から斬新すぎると言われ、「死の恐ろしさが表現されていない」「異教徒的」などとの批判も出たと言う。教会のために書いた作品でないことが立証されている。これに対してフォーレは1902年にある手紙に、次のように書いている。「私のレクイエム…は、死に対する恐怖感を表現していないと言われており、なかには、この曲を『死の子守歌』と呼んだ人もいます。しかし、私には「死」はそのように感じられるのであり、それは苦しみというより、むしろ永遠の至福の喜びに満ちた解放感に他なりません」
また、晩年の1921年には、「私が宗教的幻想として抱いたものは、全てレクイエムの中に込めました。それに、このレクイエムですら、徹頭徹尾、人間的な感情によって支配されているのです。つまり、それは永遠的安らぎに対する信頼感です。」

これらのレクイエムに対するフォーレの言葉を念頭に、どのように演奏すればフォーレが描こうとしたテーマに添うことができるだろうか? 曲に問いかけるしかないかも知れない・・・

INTROIT et KYRIE
REQUIEM – Ⅰ – 入祭唱とキリエ
原稿制作中
OFFERTOIRE
REQUIEM – Ⅱ – 奉納唱
原稿制作中
SANCTUS
REQUIEM – Ⅲ – 聖なるかな
原稿制作中
PIE JESU
REQUIEM – Ⅳ – 慈悲深いイエスよ
原稿制作中
AGNUS DEI
REQUIEM – Ⅴ – 神の子羊
原稿制作中
Libera me
REQUIEM – Ⅵ – 私を解き放ってください
原稿制作中
In Paradisum
REQUIEM – Ⅶ – 楽園へ
原稿制作中
Super flumina Badylonis
作曲 G.P.da Palestrina
聖書によれば、神に従わなかったユダヤ王国は、南北に分裂し、やがてはバビロニアに滅ぼされる。ユダヤ人はバビロニアの捕囚となった。彼らは苦しい時も悲しい時も、神を賛美し、歌い踊って乗り越えてきたが、このときばかりは、歌う気力も失い、竪琴さえ弾けなくなり、バビロンの河原でうずくまってしまったという。
旧約聖書の中でも、特に民族の嘆きが綴られた詩篇137篇の一節である。国を失い捕囚となり、絶望に至るまでの苦しみは、何のためだったのだろう。短い言葉の中に込められた歴史を。少しでも感じながら歌いあげてみたい名曲である。
Kyrie/Gloria
作曲 G.P.da Palestrina
カソリック教会の礼拝で捧げられる祈りの曲と言えるミサ曲の最初の2曲。
同じようなメロディが、前後しながら歌い紡がれ、しかも素晴らしいハーモニーを生み出す、対位法といわれる作曲技法の最高峰のもので、作曲者のパレストリーナは、「教会音楽の父」と言われるほど、多くのミサ曲を残している。和の輪合唱団では、このパレストリーナを主軸として、発声やハーモニーの探求をしている。ラテン語の発音も未熟であるが、言葉にならない魅力を感じ始めている。
Ave verum corps
作曲 W.A.Mozart
イエス・キリストは、十字架に架かる前夜、弟子たちと「最後の晩餐」をする。「これは私の体である」と、パンを弟子たちに食べさせ、自分との永遠の絆を結ぶ儀式とした。現在でもキリスト教会では、この聖餐式は、大切な儀式の一つとなっている。
希望と喜びの奥に、耐えがたい苦痛と犠牲があった事実を知らしめる「アヴェ・ヴェルコム・コルプス」モーツァルトは、静かで豊かなハーモニーの中で語っている。